2017年4月25日火曜日

私は信じた

たとえば塩のない世界があるとすれば、その世界では砂糖の甘さがわかるだろうか?

みんな良い人ばかりの世界があったら、それってどういう世界なのだろう?

良い人はこういう報いがあって、悪い人はこういう報いがあるということが決まっているのならそれは秩序ある世界。

しかし、現実のこの世は秩序ある世界ではなく混沌。今の世界情勢を見れば混沌さがわかる。

では混沌とは何か?
欲が渦巻く、真理の追究もなく、絶対のものがない世界と言ってもよいと思う。

絶対のものがないのならすべてが相対ということになる。
相対だからその分だけそれぞれが主張する正義がある。

それぞれが主張する正義だからそこに何が起こっても不思議はない。私たちはこの混沌世界に身を置いているので一寸先のことはわからない。

この世に身を置いている私には不安があった。
本当のものは何か?
何が真理なのか?

もし人に何の心配も不安もない、ハッピーばかりの世界なら何かを信じるなんて要らない。いろいろと欠けのある自分というものを否定して、何かを信じて歩むことなんかしなくてもよい。
しかし何の心配も不安もない人間なんて現にいない。

だったら心配も不安も取り去ってくれるものがいないのか?
目の前に広がる完全な秩序に満ちた全宇宙がある。地球もその一部、そこに住む私たちは地球上の自然というものからいっぱい恵みを受けてきた。

地球上の自然は偶然にできたのか?
いくつもの偶然が重なりあわないと生きものに満ちたこの素晴らしい地球はなかったのではないか?

それでも偶然に世界はできたのか?
偶然でないのなら全宇宙を造られた方がいるのか?
創造主といえる者が?初めからいる絶対者。

私は絶対の者がいると思った。全宇宙はあまりにも秩序に満ちているからそれを造られた者がいると思った。そして、その者に信を置いて歩むという信仰が生まれた。

「初めに神は天と地とを創造された」という聖書の冒頭の宣言は重要かつ真理だと思った。


予断を挟まず謙虚になってこの宣言に思い巡らせて私は神の存在を信じた。
あなたはどのように思われますか?
銀河宇宙

2017年4月23日日曜日

4月23日(日)主日礼拝

4月23日(日)
島本キリスト福音教会 主日礼拝ビデオを公開します。

☆ メッセージ 川元伝道師
  エペソ人への手紙 4章22節~24節
  「古い人を脱ぎ捨てて、新しい人を身に着ける」




管理人です。
更新が滞っていることを申し訳なく思っております。

私がキリストの信仰の道を歩み出して14年。その間いろいろありました。
しかしキリストのみことばへの熱い思いだけは変わることがありませんでした。

一つのことに、これほど真剣に取り組めたことは今までの人生で他にはありません。
私が曲がりなりにも信仰の道を踏み外さず続けてこられたのが自分の力でないことは自分自身が一番よく知っています。

あなたがたがわたしを選んだのではない。わたしがあなたがたを選んだ。(ヨハネの福音書 15章16節)

人は、天から与えられなければ、何も受けることができない。(ヨハネの福音書 3章27節)

今も、聖霊御自身が私に主イエス・キリストを求める熱い思いを、私の内に与え続けて下さっています。

兄弟姉妹のみなさん。キリストに倣うとは、どういうことでしょうか?
キリストのかたちとは何でしょうか?

キリストは神の御姿である方なのに、神のあり方を捨てられないとは考えず、
ご自分を無にして、仕える者の姿をとり、人間と同じようになられました。人としての性質をもって現れ、
自分を卑しくし、死にまで従い、実に十字架の死にまでも従われました。(ピリピ人への手紙 2章6節~8節)

キリストはすべての権利の源である全能のお方であられるのに「権威がある」とは主張されても、「権利がある」とは一度も主張されなかった。あなたはどうでしょうか?

あなたには自由な生活の権利があります。この世でそれを主張することはだれもとがめません。でも、あなたはキリストのかたちに変えられたのではありませんか?(今は肉眼で見ることは出来なくても)

「受けるよりは与える方が幸いである。(使徒行伝 20章35節)
キリストのかたちとは、キリストに倣うとはこれだと私は思います。

自己追求だけで、受けるだけでいいのですか?あなたに与えられた内なるキリストをこのブログで現すことは難しいことでしょうか?自分のあり方を捨てることは難しいことでしょうか?

キリストから受けた恵みは、流し出すためにあります。共にキリストの福音の恵みにあずかり、キリストと喜びを共にすることほどすばらしい体験はありません。

『さあ、わたしの父に祝福された人たち。世の初めから、あなたがたのために備えられた御国を継ぎなさい。

あなたがたは、わたしが空腹であったとき、わたしに食べる物を与え、わたしが渇いていたとき、わたしに飲ませ、わたしが旅人であったとき、わたしに宿を貸し、

わたしが裸のとき、わたしに着る物を与え、わたしが病気をしたとき、わたしを見舞い、わたしが牢にいたとき、わたしをたずねてくれたからです。』

すると、その正しい人たちは、答えて言います。『主よ。いつ、私たちは、あなたが空腹なのを見て、食べる物を差し上げ、渇いておられるのを見て、飲ませてあげましたか。

いつ、あなたが旅をしておられるときに、泊まらせてあげ、裸なのを見て、着る物を差し上げましたか。

また、いつ、私たちは、あなたのご病気やあなたが牢におられるのを見て、おたずねしましたか。』

すると、王は彼らに答えて言います。『まことに、あなたがたに告げます。あなたがたが、これらのわたしの兄弟たち、しかも最も小さい者たちのひとりにしたのは、わたしにしたのです。』(マタイの福音書 25章34節~40節)

2017年4月16日日曜日

4月16日(日)主日礼拝

管理人です
本日(04/16)の島本キリスト福音教会 主日礼拝ビデオを公開します。

2017.04.16
メッセージ:藤田牧師
ヨハネ福音書に聞く 第94回
ヨハネの福音書 20章11節~18節
復活③ 私を呼んで下さる神さま

礼拝メッセージ要旨【PDF】


2017年4月15日土曜日

奮い立って生きる

だれも、自分の不義のうちにいながら、奮(ふる)い立って生きることはできないからだ。(エゼキエル書 7章13節【新改訳聖書】)

私には幼少の頃に、それ以降の自分の精神形成に暗い影を投げかけ続けた、一つの苦い思い出がある。

それは小学校の入学式での出来事だった。両親が共稼ぎの鍵っ子だったため、入学式には母親も出席できず、4年生の姉と一緒に学校まで足を運んだ。

期待で胸一杯だった。その頃の私は自分で言うのも何なのだが、明るく元気で活発な子供であった。

初めての教室では、担任の女先生が、新入学児童の名前を、あいうえお順、男女別で呼んでみんなが「はい!」と元気に返事をしだした。

当然、私の名前は男児の一番最後に呼ばれるはずである。その時がやってきた。
返事をするのを、わくわくして待っていた。ところがである。最後なのに名前を呼ばれなかったのである。

続いて、女児の名前が読み上げられていった。女児の最後になって、ようやく私の名前が読み上げられた。

私はおかしいなと思いながらも元気に「はい!」といって手を上げた。
すると、担任の女先生が素っ頓狂な声を出してこう言った。「あら。男の子だったのね。女かと思った。アハハハハハ~~~」

たちまち、教室全体に、児童の、父兄の、教師の「アハハハハハ~~~」という笑いの洪水が響き渡った。

その瞬間、私の心に「僕は人に笑われるような人間なんだ。ダメな人間なんだ。つまらない人間なんだ。」という思いがストンと入った。

教室の中には私をかくまってくれる場所がどこにもなかった。父親も母親も姉もいない中で、ひとり下をうつむいて耐えたのをいまでも鮮明に思い出すことができる。

それ以降、私は他人から注目されることを極端にいやがる子供になってしまった。
勉強においても、得意なことにおいても、他人から注目されるようになると、途端に心に恐れが生じ、注目されないようにするために、それを放棄してしまう衝動に駆られるのである。
友人関係においても、ある程度の距離以上に親しくなるとそれ以上に親しくなることに恐怖心を感じて、自ら関係を切ってしまうのである。
「どうせ俺なんか駄目に決まってる。」
「しょせん俺はこの程度の人間なんだ。」

そのくせ、その反動として内面のプライドは高く、自尊心ばかりが一人歩きし、何かで失敗しても『すべてのことを他人のせいにしてしまう』言い訳の生き方をするようになって行った。
いま思うに、そのことによって、ようやく心のバランスを保っていたのだと自己分析できる。

聖書の中に、私と同じ様な生き方をしていた人物が描かれている。

その後、ユダヤ人の祭りがあって、イエスはエルサレムに上られた。
さて、エルサレムには、羊の門の近くに、ヘブル語でベテスダと呼ばれる池があって、五つの回廊がついていた。
その中に大ぜいの病人、盲人、足のなえた者、やせ衰えた者たちが伏せっていた。
そこに、三十八年もの間、病気にかかっている人がいた。

イエスは彼が伏せっているのを見、それがもう長い間のことなのを知って、彼に言われた。「よくなりたいか。」

病人は答えた。「主よ。私には、水がかき回されたとき、池の中に私を入れてくれる人がいません。行きかけると、もうほかの人が先に降りて行くのです。」

イエスは彼に言われた。「起きて、床を取り上げて歩きなさい。」

すると、その人はすぐに直って、床を取り上げて歩き出した。(ヨハネの福音書 5章1節~9節)

この人物は『わたしそのもの』です。

自分にとって一番都合のいい『自己正当化』の中にうずくまって、『自己れんびん』を武器に、言い訳の人生を38年間も送り続ける罪だらけの人生です。

そんな男が、自分の罪の思いの真正面に向き合って切り込んでくるイエスと出会います。
イエスのみことばの中にある神の聖霊の力が、彼の心を動かせたのだと思います。
彼の耳に、このように聞こえたのでしょう。

「お前の『どうせ』『しょせん』の言い訳の床を、みずから取り上げて、自分の足で歩き出せ。」

神のことばを信じ、奮い立って立ち上がる時、あなたの前に神の驚くべき御業が実現する。

人生は、自分の責任で招いたのではないにもかかわらず、様々な試練に出会います。
イエスによって救われた私は、やっと『なぜ私がこのような理不尽な目にあったのか』を理解することができるようになりました。

自分が経験するすべてのことが、『キリストを知り、神の永遠のいのちに生かされる』ために準備されたものであったと言うことを。

わたしはあなたがたのために立てている計画をよく知っているからだ。
──主の御告げ──
それはわざわいではなくて、平安を与える計画であり、あなたがたに将来と希望を与えるためのものだ。(エレミヤ書 29章11節)

わたしの目には、あなたは高価で尊い。
わたしはあなたを愛している。(イザヤ書 43章4節)

さあ、自分を正当化する自己の義を、神の聖霊の力によって脱ぎ去り、神のみことばの義の衣を着せていただき、奮(ふる)い立って生きる人生を全うしようではありませんか。
ハレルヤ!

2017年4月10日月曜日

恵みを流し出す

私たちは神の恵みに、どれほど気づいた生活をしているでしょうか?

放蕩息子の兄は、弟と同じだけの財産を分けてもらいながら、その恵みにまったく気づかない生活を送っていました。
だから、弟が帰ってきた日、父の弟に対する態度に激高してしまいました。(ルカの福音書15章11節~31節)

私たちもこの兄と同じ様な感覚を持ってはいないでしょうか?
人は、受ける恵みには鈍感です。何か『受けて当然、当たり前』のような感覚さえ持ってしまいます。だから恵みの発信元に対して何の感謝も関心も持つことがありません。

今日一日、「事故もなく、犯罪にも巻き込まれず、仕事もでき、衣食住も確保され、帰りを待ち受ける家庭がある」という当たり前の生活の中に、どれほどの神の恵みがあるのか考えもしないのです。

反対に、そのような平安な生活が確保されなくなったり、人と比べて少しでも受けたものが少ないと感じる時、激しい不公平感を持ち、当事者や恵みの発信元に対して怒りをぶつけます。

あなたの今日、一日の生活の中に、神の恵みを感じた瞬間があったでしょうか?
「確かにあった」と答えられる人は、本当に神に愛された信仰者です。

キリストの信仰者とは、この世の人と何が違うのか?パウロはこう言っています。

私はすべてのことを、福音のためにしています。それは、私も福音の恵みをともに受ける者となるためなのです。(第一コリント 9章23節)

私自身も、こうありたいと願っています。
私たちの生活のすべては福音のためにあるのです。
そして信仰者とは神の福音の恵みを受けて、それを流し出す人のことです。
自分が神から受けている日々の恵みがはっきり見え、それを証しすることが、すなわち福音を語ることだということでしよう。

パウロは第2コリント書の中で、自分の福音の生活を披露しています。

私たちは、この務めがそしられないために、どんなことにも人につまずきを与えないようにと、あらゆることにおいて、自分を神のしもべとして推薦しているのです。

すなわち非常な忍耐と、悩みと、苦しみと、嘆きの中で、
また、むち打たれるときにも、入獄にも、暴動にも、労役にも、徹夜にも、断食にも、
また、純潔と知識と、寛容と親切と、聖霊と偽りのない愛と、真理のことばと神の力とにより、

また、左右の手に持っている義の武器により、
また、ほめられたり、そしられたり、悪評を受けたり、好評を博したりすることによって、自分を神のしもべとして推薦しているのです。

私たちは人をだます者のように見えても、真実であり、
人に知られないようでも、よく知られ、死にそうでも、見よ、生きており、罰せられているようであっても、殺されず、
悲しんでいるようでも、いつも喜んでおり、貧しいようでも、多くの人を富ませ、何も持たないようでも、すべてのものを持っています。(第2コリント 6章3節~10節)

人からさげすまれ、迫害され、死の谷を歩くような生活の中であってさえ、神の驚くほどの恵みを経験しそれを証ししているのです。

何も特別なことをすることが信仰生活をすることでもなく、福音を語ることでもないのです。

さあ、私たちも日々の生活の中に神の恵みを数え、そのことを証しする福音生活を送ろうではありませんか。

 御使いはまた、私に水晶のように光るいのちの水の川を見せた。それは神と小羊との御座から出て、都の大通りの中央を流れていた。川の両岸には、いのちの木があって、十二種の実がなり、毎月、実ができた。また、その木の葉は諸国の民をいやした(ヨハネの黙示録 22章1節~2節)

あなたが、神の恵みの福音の「いのちの水」を、その口から流し出す時、それを聞いた周りの人々の心はいやされ、多くの喜びの果実を実らせるでしょう。ハレルヤ!


2017年4月9日日曜日

4月9日(日)主日礼拝

管理人です
4月9日(日)
島本キリスト福音教会 主日礼拝メッセージを公開します。

2017.04.09
メッセージ 藤田牧師
エレミヤ書 1章4節~10節
聖霊を受けてください


☆ メッセージ要旨【PDF形式】


☆ 更新が滞っておりますことをお詫びいたします。
  更新作業に時間的余裕がありません。
  私自身の主との交わりの時間が必要なのです。
  聖霊に導かれる生活がくずれると、私の生活にいのちがなくなるのです。

2017年4月4日火曜日

新しい契約

(旧約聖書 エレミヤ書 31章31節)
見よ。その日が来る。
──主の御告げ《主が言われる、との意味です》──
その日、わたしは、イスラエルの家とユダの家とに、新しい契約を結ぶ。

預言者「エレミヤ」は紀元前627年から、ユダ王国のエルサレムが新バビロニア帝国のネブカデネザル二世によって陥落・崩壊する紀元前586年の後、数年を経た紀元前583年頃までの44年間にわたり神のことばを預言し続けた人です。

冒頭のエレミヤが語った「新しい契約」の預言は、その預言の580年後
神の独り子、神であり人である私たちの「主イエス・キリスト」が世に来られ、
私たちのすべての罪の身代わりとして、まったく罪のないお方が十字架上で死んでくださったことにより、
いや、死んでくださっただけではなく、復活してくださったことにより今、真実に成就したことを聖書は現実として圧倒的な喜びをもって証ししています。

「新しい契約」と書かれている新約聖書の箇所は以下の7箇所です。興味のある方は御自身で聖書を開き、使徒行伝のベレヤ人のように(使徒行伝17章11節)ご確認ください。
☆ ルカの福音書 22章20節
☆ 第一コリント書 11章25節
☆ 第二コリント書 3章6節
☆ ヘブル人への手紙 8章8節
☆ ヘブル人への手紙 8章13節
☆ ヘブル人への手紙 9章15節
☆ ヘブル人への手紙 12章24節

私たち自身の正しい行いによってではなく『罪の代価としてのキリストの十字架の死と復活の御業によって、罪の支配から贖(あがな)われた』ことを信じる信仰によってのみ、罪のない者とされ、神に対して義とされ聖とされ、神と共に永遠のいのちに生きる道が備えられたのです。

エレミヤが語った「新しい契約」とは、この『信仰による義』であり、
この信仰こそが神が私たちに提示する神との和解の唯一の道であると語っているのです。
すなわち主イエス・キリストの「新しい福音」なのです。

では、福音とは何か?

それは
神の福音(ローマ書 1章1節,第一テサロニケ 2章2節)
であり
キリストの福音(マルコの福音書 1章1節,ローマ書 15章19節)
であり
恵みの福音(使徒行伝 20章24節)
であり
平和の福音(エペソ書 6章15節)
であり
栄光の福音(第二コリント書 4章4節)
であり
救いの福音(エペソ書 1章13節)
であると書かれています。

もう私たちの『誇り』は取り去られました。
『コンプレックス・劣等感』はもういらないのです。
『頑張らなくて』いいのです。
『他人と比べなくて』いいのです。
『威張らなくて』いいのです。
『高慢にならなくて』いいのです。
『妬まなくて』いいのです。
『イライラしなくて』いいのです。
『怒りを爆発させなくて』いいのです。
『卑屈にならなくて』いいのです。
『不安にならなくて』いいのです。
『暗闇の世界に生きなくて』いいのです。
『涙を流さなくて』いいのです。
『平和に暮らして』いいのです。
『喜んで』いいのです。

神への『信仰と希望と愛』があればいいのです。

お一人お一人が聖書箇所を確認し、神の福音の驚くべき恵みを味わってくださるならば、
あなたの心に神の愛が溢れるほどに押し寄せてくることでしょう。

福音を知った私たちの歩みとはどのような歩みなのか?
新しい契約の支配者であるキリストが、ベツレヘムで生まれることを預言した旧約預言者の「ミカ」はこのように語りました。

主はあなたに告げられた。
人よ。何が良いことなのか。
主は何をあなたに求めておられるのか。
それは、ただ公義を行い、誠実を愛し、
へりくだって
あなたの神とともに歩むことではないか。(ミカ書 6章8節)

将来におけるあなたの平和と繁栄は、現在におけるあなたの信仰の歩みにかかっている。
すなわち、いついかなる時も「神と共に歩む」ことである。

☆☆☆ 主と共に歩むPraise MIDI Music より】 ☆☆☆