2017年7月23日日曜日

7月23日(日)主日礼拝

管理人です
島本キリスト福音教会 主日礼拝ビデオを公開します。

2017.07.23
メッセージ:川元洋子 伝道師
第二コリント書 3章16節~18節
「顔からおおいが取りのけられる」

2017年7月16日日曜日

7月16日(日) 主日礼拝

管理人です
島本キリスト福音教会 主日礼拝ビデオを公開します。

2017.07.16
メッセージ:上田 昌司 名誉牧師
ヨハネの福音書 16章33節
「私はすでに世に勝っている」

2017年7月15日土曜日

コリント人のように

さて、兄弟たちよ。私は、あなたがたに向かって、御霊に属する人に対するようには話すことができないで、肉に属する人、キリストにある幼子に対するように話しました。

私はあなたがたには乳を与えて、堅い食物を与えませんでした。あなたがたには、まだ無理だったからです。実は、今でもまだ無理なのです。

あなたがたは、まだ肉に属しているからです。あなたがたの間にねたみや争いがあることからすれば、あなたがたは肉に属しているのではありませんか。そして、ただの人のように歩んでいるのではありませんか。(第一コリント 3章1節~3節)

私たちは今日どのような歩みをしたでしょうか。
立ち止まって考えてみることは御国へと歩む私たちにとって、非常に大切なことだと思うのです。

私自身について考えています。
今日の一日、ただの人のように歩んではいなかったか?自問自答しています。

この世の価値観が支配していなかっただろうか。
自分にとって都合がいい事だけを優先していなかっただろうか。
自分が損をせず得になるようにと、うまく立ち回ることだけを考えなかっただろうか。
思い通りに事が運ばなかったのは相手のせいで、自分は被害者の立場になりきらなかっただろうか。

もしも、キリストのいのちを生きているのだったら、
損をしてもいいではないか
非難されてもいいではないか
誤解されてもいいではないか
理不尽さに甘んじて傷を受けてもいいではないか
周囲の関心を求めなくてもいいではないか
成した事に対する感謝を期待しなくてもいいではないか

私たちの教会がどうか固い食物を食べる事ができる教会となりますように。

固い食べ物とは
小さくなること
低められること
愚かになること
さげすまれること
貧しくなること
捨てること

2017年7月9日日曜日

7月9日(日)主日礼拝

管理人です
本日(07/09)の島本キリスト福音教会 主日礼拝ビデオを公開します。

2017.07.09
メッセージ:藤田 牧師
詩篇 27篇4節
「主の麗しさを仰ぎ見る」

☆ 礼拝メッセージ要旨【PDF】

2017年7月6日木曜日

生き物はみんな懸命に生きている②

今日は大阪市内でツバメを見た。

街路樹の葉っぱの中を行き来している。面白いのはスズメと一緒になって街路樹の葉っぱの中から道路に降りてきて、また木の葉っぱの中へ飛んでゆく。

最初に生まれて飛べるようになった子ツバメだろうか?
よく観察してみると道路の舗装の上を歩いては街路樹の中に入る。スズメと争うことなく同じようにしていた。

ツバメは足が弱いから路上に降りて歩くことはしない。だから電線に止まっているものと思っていたが、何らかの理由で少しは歩くんだと思った。気づかなかったなぁと苦笑いした。

今日も元気に生きている姿を見ると心が和む。9月には遠い南の国に旅立ちだ。誰の世話にもならずにみんなが自力で飛んで帰る。

ツバメだけではない。自然界の動植物すべてが懸命に生きている。彼らの生きる場所を奪ってはならない。彼らの生活を邪魔してはならない。

そのために高い能力を与えられている人間は自然界をきちんと管理しなければならない責任を負っているのだ。

お互いの生活圏が豊かなら神の被造物同士が同等のいのちをつむぐことができる。

誰の世話にもならずに神さまから与えられたものだけで懸命に生きている彼らに倣うことができるか?

人は必ず誰かの世話になっているのだから、ひとりで生きているなんて思いを、ゆめ持ってはならない。

人は互いに支え合って生きていくように造られているのだから謙虚になって彼らに学ぶがよい。

彼らの懸命さを、偽りがない、ウソがないのだから彼らに罪はない。罪があるのは欲深い人間の方なのだ。

人間が罪から完全に解放されなければ、人によって生きる環境を破壊された他の動植物のうめきも苦しみもなくならない。

人よ、彼らの生き方をよく見て、学ぶがよい。どちらが真実なのかを。

人よ、自分でいのちのコントロールができるか?決してできない。だから生かされているということだ。

悲しいかな!造り主によって創造されたとおりに生きている動植物の方がずっと真実に生きている。

ツバメの生き方ひとつとっても多くを学べるものだ。

☆☆☆ 追 伸 ☆☆☆
『私たちは、被造物全体が今に至るまで、ともにうめきともに産みの苦しみをしていることを知っています。』(ローマ人への手紙 8章22節)

悲しい知らせです。
教会の駐車場で子育てをしていたツバメの巣が、カラスの攻撃を受けて破壊され、すくすく育っていた、ひな鳥が全滅してしまいました。

ショックでした。第一陣のツバメも攻撃され、今回の第二陣のツバメに期待をかけていたのですが残念で仕方がありません。

カラスも生きるためとはいえ、最近はあまりにもその傍若無人(鳥)ぶりが目に余ります。
もとはと言えば、このカラスの激増も、人間のゴミの放置という罪が生み出した結果なのです。人間の罪によって、神に造られた全被造物が呻いています。
主よ、いつまででしょうか?

2017年7月5日水曜日

使徒行伝16章

本日は使徒行伝の16章を読んだ。
この章はパウロ一行が何をやってもうまくいかない状況が展開する。

のっけから、第1回目の伝道旅行の同労者「バルナバ」と仲たがいを生じ、別々の道を行く事になる。

以降、行く先々で自分の思う方向には全く進む事ができず、宣教の思いはことごとく崩れ去って行くばかりとなった。

思うに、パウロ一行が宣教したいと思う場所にはすべて現地のユダヤ人居住区があり、第一回伝道旅行時における抜き去りがたい怨恨と、ユダヤ人の宗教的優越性を守ろうとする危機意識が溢れていたであろう。

私の人生を振り返る時にも、自分の思いとは裏腹に何をやってもうまくいかない時、
どのように振る舞い、また説明しても、本心を理解してくれず、かえって陰で揶揄され、理不尽な取り扱いを受けた経験は幾度となくある。

パウロの八方塞がりを一信仰者として読む時、『こんな時こそ神の真実を体験する決定的なチャンスの時』なのだと信仰によって確信する事ができる。

一生懸命に祈って、確信が与えられなくても、勇気を持って自分の信じた方向へ一歩踏み出してみる。

もしうまくいかなければそれ以上進めなくなるだろう。それによって神の御心とは違う事を知ればよいのだ。
痛い目を経験しても、後になってその時に聖霊が導いて下さっていた事を知る事になるのだ。そしてパウロのように語る事が出来るだろう。

「アジアでみことばを語る事を聖霊によって禁じられた」
「イエスの御霊がそれをお許しにならなかった」

と。
しかし踏み出した以上、神は必ず別の道を指し示して下さる。「この道だ。これを行け」と
そしてそれは私にとって最善の道ではなくても、神にとって必然の道なのだ。

私の人生の完成ではなく、キリスト実現という神の栄冠を目指す私たちにふさわしい喜びの道を備えて下さっている事を信仰によって確信します。

2017年7月3日月曜日

生き物はみんな懸命に生きている

教会への道すがら頭上をツバメが舞う。
子育てに一所懸命、昆虫などのエサを求めて朝から晩まで飛んでいる。

今日も元気に飛んでいるね、って声をかける。あと2か月の間、子育てにいそしみ、
大阪では第一陣が豊里大橋あたりに大集結し、9月には遠い南の国に帰る。

その飛行距離は2千キロにも及ぶ。しかも誰の助けも借りずにみんな自力で飛んで帰るのだ。
大変だと思う。だからツバメの姿を見るといとおしい気持ちになる。

懸命に生きているのは何もツバメだけではない。自然界の生き物すべてがそのように生きているだ。

その彼らの生きる場所を奪い、彼らの生活を邪魔しているのは人間なのだ。自分の欲のために地球を壊しているのも人間だ。

彼らのいのちも人間のいのちも同等なのだという思いを持っていないと人間は自分が偉いと大きな勘違いをする。

地球上に生きるものはすべて神さまからいのちを与えられた同等の存在である。そう考えないと人は高慢になる。

人は誰の世話にもならずにひとりで生きてゆけるのか?食事だって誰かがつくってくれているものもある。乗り物に乗っても誰かが運転しているのだ。

病気になったら病院の世話になる。組織にいたら組織の世話になっている。決してひとり自力で生きてゆけないのが人間なのだ。

だったら謙虚になって自然界に生きている彼らに学ぶがよい。

彼らから学ぶことは多いが、一つだけあげると何と言っても生きることに一所懸命なのだ。

いのちをつなぐことに懸命なのだから彼らには偽りがない。生き物はみんな自力で懸命に生きるている。わたしはわたし、あなたはあなた。

このように他者に干渉もしない。誰の世話にもならずに、自分のするべきことをしている。何の言い訳もせず、黙々となすべきことをなす。

不真面目なふざけた生き方はしていない。ウソがないとはこういうことをいうのだ。
彼らはこのように生きている。さて私たちはどうか?

教会の駐車場でも子育て中です